すののミネソタ生活

アメリカで働くエンジニアのブログ、音響、自転車、写真

写真のデジタル現像は「ずるい」のか?RAW現像を必ずする私の考え

「写真を撮ったあとに明るさや色を調整するなんて、なんかずるくない?」

写真を趣味にしていると、ときどきこんなことを言われます。

その場できちんと設定して撮影し、カメラから出てきたJPEG、いわゆる「撮って出し」で勝負する。それこそが写真なんじゃないか、と。

この感覚は、私もよくわかります。

ただ、私は一眼レフで撮った写真を、そのまま人に見せることは基本的にありません。必ずRAWで撮影し、デジタル現像をしてから公開します。

なぜなら私にとって現像とは、「写真をよく見せるための加工」ではないからです。

撮影したときに自分が見て、感じ、記憶した風景へ近づける作業。

それが、私にとってのデジタル現像です。

私がJPEGではなくRAWで撮る理由

私は一眼レフで写真を撮るとき、基本的にJPEGではなくRAW形式で保存しています。

RAWには、カメラのセンサーが受け取った光の情報が、できるだけ多く残されています。

ただし、そのままでは一般的な写真として扱いにくいため、最終的にはJPEGなど、人が見られる形へ変換する必要があります。

イメージとしては、フィルム写真に少し似ています。

フィルム時代は、撮影しただけでは完成した写真にはなりません。撮影したフィルムを現像し、最終的に目で見られる写真にしていました。

それをデジタルで行うのが、いわゆるRAW現像、デジタル現像です。

「撮って出し」も、実は誰かが現像している

「後から現像するのはずるい。撮って出しで勝負するべきだ」

そう言われたとき、私が考えるのはここです。

では、その「撮って出しJPEG」は、どうやって作られているのでしょうか。

カメラのセンサーが記録しているのは、レンズを通して入ってきた光の情報です。それをJPEGという見られる写真にするためには、カメラ内部で何らかの変換処理をしなければなりません。

つまり、JPEGも何も処理されていないわけではありません。

たとえばニコンのカメラなら、ニコンが設計した処理によってRAWデータが変換されてJPEGになります。キヤノンなら、キヤノンが考えた処理によってJPEGになります。

もちろんメーカーは、できるだけ多くの人が「きれいに撮れた」と感じられるよう、長年研究しているはずです。

だから撮って出しでも、十分きれいな写真は出てきます。

ただ、それは言ってみれば、カメラメーカーに現像を任せているということでもあります。

それなら、自分が撮影したときに感じた風景へ近づけるため、自分自身で現像するという選択肢があってもいい。

私はそう考えています。

人間の目も「見たまま」を記録しているわけではない

もうひとつ、現像について考えるうえで面白いのが、人間の「見る」という行為です。

私たちは目の前の風景を、目でそのまま見ているように感じます。

しかし実際には、網膜で受け取った光の情報が脳へ送られ、さまざまな処理を経て、最終的に「風景」として認識されています。

そして記憶に残っている風景も、物理的な光の情報そのものではありません。

いわゆる「記憶色」という言葉がありますが、人間が記憶している色や明るさは、実際の物理量そのものとは限りません。

経験や感情、その瞬間にどこを見ていたのかによっても、記憶に残る風景は変わります。

写真を撮るときも同じです。

「これはきれいだ」

「この瞬間を残したい」

そう思ってシャッターを切ったとき、ファインダー越しに見た風景と、そのとき感じたことが自分の中に残ります。

私にとってRAW現像とは、センサーが記録した大量の情報の中から、そのとき自分が見ていた風景、自分の中に残っているイメージへ近づけていく作業なのです。

では「現像」と「加工」の境界はどこなのか

もちろん、デジタル現像ではかなりいろいろなことができます。

明るさを変えたり、色味を変えたり、コントラストを調整したり。

やろうと思えば、「実際よりよく見せる」方向へ大きく変えることもできます。

では、どこまでが現像で、どこからが加工なのか。

これはなかなか難しい問題です。

私自身、すべてのケースに当てはまる明確な答えを持っているわけではありません。

ただ、自分の中ではひとつの基準があります。

その場所に同じ時間にいた人が写真を見たとき、違和感を覚えない範囲。

私は、このあたりまでを「現像」と考えています。

運動会の写真を例にするとわかりやすい

たとえば運動会で写真を撮ったとします。

私はRAWで撮影し、家に帰ってから現像します。

そのとき思い出すのは、自分がファインダー越しに見た運動会の風景です。

「このときはこんな感じだったな」

「この光はこんなふうに見えていたな」

そんな記憶を呼び起こしながら、明るさや色などを調整していきます。

そして完成した写真を、運動会に参加していた人たちに見てもらう。

もちろん、人によって記憶している色や印象は違うでしょう。

それでも、同じ場所、同じ時間にいた人が写真を見て、

「こんな感じだったよね」

と自然に受け入れられる。

私としては、それがひとつの基準です。

逆に、

「これ、本当に同じ場所で撮った写真?」

と思われるほど変えてしまったら、それは自分の中では現像という範囲を超え、加工や合成に近づいている感覚があります。

フィルム時代だって「現像」はしていた

「デジタルだから後から簡単に変えられる。昔はそんなことをしていなかった」

そんな意見もあります。

でも、実際にはフィルム時代にも現像による調整はありました。

一般の人は撮影したフィルムを写真店へ持っていき、お店で現像してもらっていました。

これは今でいえば、カメラメーカーの処理に任せてJPEGを作ってもらうことと、考え方としては似ています。

一方、写真にこだわる人の中には、自分で暗室に籠もって現像やプリントをしていた人もいました。

露光時間を調整したり、覆い焼きや焼き込みをしたり、フィルターを使ったり。薬液などによって仕上がりを調整することもありました。

今のデジタル現像のように、マウスを動かせばすぐ明るさが変わるわけではありません。猛烈に手間がかかります。

それでも、自分が撮影したときに感じた情景へ近づけるために、自分で仕上げていたわけです。

方法がアナログからデジタルへ変わっただけで、根本にある考え方は、それほど変わっていないのではないかと思います。

私がRAW現像をするのは「カメラ任せにしたくない」から

私は、自分が撮った写真を、自分が納得できる状態にしてから人に見せたいと思っています。

だからカメラ任せにはせず、自分で現像します。

RAWファイルは容量も大きいです。

現像にも時間がかかります。

特に運動会のようなイベントでは、1日で7,000〜8,000枚ほど撮影することもあります。

もちろん、そのすべてを公開するわけではありません。

そこから300枚程度を選んだとしても、1枚1分なら300分。5時間です。

実際には1枚2〜3分かかることもありますから、かなり大変な作業になります。

それでも、そのひと手間には意味があると思っています。

せっかくの感動的なイベントを、できるだけ自分が感じた形に近い写真として残したいからです。

私にとって現像は、人に写真を見せる前の最低限の礼儀、あるいはマナーに近いものなのかもしれません。

「撮って出し」という考え方も間違いではない

ここまで書いてきましたが、私は「全員RAWで撮影して現像するべきだ」と言いたいわけではありません。

撮って出しには、撮って出しの考え方があります。

その場で露出やホワイトバランスなどをしっかり決め、自分が納得できる状態までカメラを設定してシャッターを切る。

そして、そのJPEGをそのまま作品として見せる。

これはまったく間違いではありません。

むしろ私は、そういう撮り方ができる人を尊敬します。

私にはなかなか難しい。

特に運動会など動きの速いものを撮影していると、何よりもタイミングとシャッターチャンスが重要です。

設定ばかりに気を取られて、肝心の瞬間を逃したくありません。

だから私は、もちろん撮影時にも設定はしますが、情報が破綻しない範囲でできるだけ多くの情報をRAWに残すことを優先します。

そして撮影後、その情報の中から必要なものを引き出し、自分の記憶に近づけていく。

それが自分に合った撮り方なのだと思っています。

デジタル現像は「ずる」ではなく、写真を完成させる工程

結局、「デジタル現像はずるいのか?」という問いに対する私の答えは、ずるいとは思わないです。

撮って出しのJPEGも、RAWから何らかの処理を経て作られています。

違うのは、その処理をカメラに任せるのか、自分で行うのか。

そして私にとって現像とは、現実にはなかったものを作り出す作業ではありません。

撮影した瞬間に自分が見て、感じ、記憶した風景へ写真を近づける作業です。

もちろん、これはあくまで私自身の写真に対する考え方です。

JPEG撮って出しにこだわる人には、その人なりの美学があります。それを否定するつもりはありません。

写真の撮り方も、仕上げ方も、人それぞれでいい。

ただ私は、自分がシャッターを切った瞬間に感じたものを、できるだけ納得できる形で人に届けたい。

だから今日もRAWで撮り、時間をかけて現像しています。

一眼レフ初心者は絞り優先でOK!スマホとは違う写真を撮る基本設定

せっかく一眼レフを買ったのに、撮ってみた写真を見ると「なんだかスマホで撮った写真とあまり変わらない……」。

そんな経験はないでしょうか。

今はほとんどの人がスマホを持ち、日常的に写真を撮っています。SNSを開けば、毎日のように大量の写真が流れてきます。

だからこそ、一眼レフを使うのであれば、私は 「スマホとはちょっと違う写真を撮る」 ことを意識すると面白いと思っています。

では、一眼レフらしい写真とは何なのか。

初心者の方でもすぐ試せる撮り方を、できるだけ難しい話を抜きにして紹介します。

一眼レフらしさは「ボケ」に出やすい

私が考える一眼レフらしさの一つが、背景や前景がきれいにボケた写真です。

見せたい被写体にはきちんとピントが合っていて、それ以外の部分がなだらかにボケている。

そうすると、写真を見る人にも「撮影者が何を見せたかったのか」が伝わりやすくなります。

スマホでも背景をぼかした写真は撮れますが、一眼レフやミラーレスなどのレンズ交換式カメラでは、レンズや焦点距離、絞りを利用して光学的なボケを作りやすいのが大きな魅力です。

せっかく一眼レフを使うなら、この特徴を積極的に使わない手はありません。

「広角ばかりで撮る」のをやめてみる

もう一つ意識したいのが、画角です。

初心者のうちは、つい広角側で撮ってしまいがちです。広く写るので失敗しにくいですし、被写体が画面からはみ出す心配も少ないからです。

でも、広角で少し離れた場所から撮ると、画面の中にいろいろなものが入り込んできます。

結果として、「いろいろ写っているけれど、何を撮りたかったのかわからない」という記念写真のような一枚になりやすい。

私はむしろ、初心者ほど少し望遠寄りで撮るほうが楽だと思っています。

ズームレンズなら、被写体から2〜3歩ほど離れて、少し望遠側にズームしてみてください。

画面の中から余計なものが減り、見せたい被写体に視線を集中させやすくなります。

さらに、一般に望遠側を使うと背景もボケやすくなります。

つまり、

  • 少し離れて撮る
  • 広角だけを使わない
  • ズームを少し望遠側にする

これだけでも、一眼レフらしい写真にかなり近づきます。

初心者は「絞り優先モード」から始める

そして、もう一つ強くおすすめしたいのが撮影モードです。

一眼レフには全自動、シャッター優先、絞り優先、マニュアルなど、いろいろな撮影モードがあります。

初心者の方には、まず絞り優先モードをおすすめします。

メーカーによって表記は異なりますが、「A」や「Av」などと表示されるモードです。

私自身も、一眼レフで撮影するときの90%くらいは、この絞り優先モードを使っています。

マニュアル撮影が悪いわけではありません。難しい状況では私もマニュアルを使います。

ただ、普段からすべてをマニュアルで設定していると、設定している間にシャッターチャンスを逃してしまうことがあります。

絞り優先なら、自分で絞りを決めれば、基本的にはカメラが適切なシャッタースピードを決めてくれます。

そのため、自分の意図を写真に反映しながら、すぐ撮れるというバランスが非常にいいのです。

最初はF値を小さくして撮ってみる

絞り優先モードにしたら、初心者のうちはまずそのレンズで設定できる小さいF値を試してみてください。

たとえばキットレンズならF3.5やF4など。明るい単焦点レンズならF1.8、F1.4などを選べる場合があります。

F値を小さくして絞りを開けると、背景をボカした写真を作りやすくなります。

もちろん、いつでも最小F値が正解というわけではありません。

集合写真のように前後に人が並んでいる場合は、絞りを開けすぎると一部の人だけにピントが合い、ほかの人がボケてしまうことがあります。

風景など、画面全体をくっきり写したい場合にも絞ったほうがいいケースがあります。

ただ、最初から例外を全部覚えようとすると写真が難しくなります。

まずは**「絞り優先+小さいF値」**でたくさん撮って、ボケ方がどう変化するのかを体感してみる。

私はそれでいいと思っています。

ISO、シャッタースピード、絞りを最初から全部覚えなくていい

写真を始めると、すぐに「絞り」「シャッタースピード」「ISO感度」といった言葉が出てきます。

さらにホワイトバランスや色温度などの話も出てきます。

初心者からすると、「いったい何を設定すればいいの?」となりますよね。

写真の露出を考えるうえでは、絞り、シャッタースピード、ISO感度の関係を理解することはとても重要です。

でも、私は最初から全部を知識として覚える必要はないと思っています。

まず絞り優先で撮ってみる。

絞りを変える。

すると、写真がどう変わるのかを自分の目で確認できます。

その経験を積んだあとに、「なぜこうなったんだろう?」と調べたほうが、絞りやシャッタースピードの意味がずっと理解しやすくなります。

まさに「習うより慣れろ」です。

明るすぎる場所や暗い場所では例外もある

もちろん、絞り優先ですべて解決するわけではありません。

たとえば真夏の晴天のように非常に明るい場所で、F1.4などの明るいレンズを開放にして撮影すると、カメラの最高シャッタースピードでも露出を抑えきれないことがあります。

そういうときにはISO感度を下げたり、絞りを少し絞ったりする必要が出てきます。場合によっては、光量を物理的に抑える ND フィルタをレンズに取り付けることもあります。

反対に暗い場所では、ISO感度を上げる必要があります。

ISOを上げればノイズは増えますが、私なら多少ノイズが出ても、暗すぎたり手ブレしたりした写真よりはいいと考えます。

花火や星空などを撮影する場合には、シャッタースピードを意識した撮影も必要です。

ただ、こうした特殊な状況への対応は後から覚えても大丈夫です。

まず普通の撮影で絞り優先モードを使いながら、カメラに慣れることをおすすめします。

50mm前後から試してみる

焦点距離についても、最初は難しく考えなくていいと思います。

フルサイズカメラなら、まず50mm前後を一つの目安にして撮ってみるのもいいでしょう。

50mm前後は極端な広角でも望遠でもなく、自然な感覚で被写体を捉えやすい焦点距離です。

広角側で撮るより背景を整理しやすく、ボケも作りやすくなります。

望遠寄りで撮るときは、その場からズームするだけではなく、自分自身も少し後ろに下がってみてください。

自分が見せたいものだけを画面の中に残す。

これを意識するだけでも、写真はかなり変わってきます。

最初の一本に「50mm F1.8」をすすめたい

これから本格的に一眼レフを楽しみたい人には、もう一つおすすめがあります。

安価な明るい単焦点レンズを一本使ってみてください。

各カメラメーカーには、比較的手頃な価格で購入できる50mm F1.8前後の単焦点レンズが用意されていることがあります。

いわゆる「撒き餌レンズ」と呼ばれることもあるカテゴリーです。

ズームはできません。

画角を変えたければ、自分が前後に動く必要があります。

でも、それがいいんです。

F1.8のような明るい単焦点レンズで撮ると、背景が大きくボケた写真を比較的簡単に体験できます。

「一眼レフって、こんな写真が撮れるんだ」

そう感じられる瞬間が増えると、一気に写真が楽しくなります。

なお、APS-Cセンサーのカメラでは50mmを付けるとフルサイズより画角が狭くなるため、同じような画角を狙うなら35mm前後の単焦点レンズが候補になります。

写真は「設定を覚えてから撮る」のではなく、撮りながら覚える

今日の話をまとめると、初心者の方にまず試してほしいのは次の3つです。

  1. 絞り優先モードで撮る
  2. まずは小さいF値を試して、ボケを体感する
  3. 広角ばかり使わず、少し離れて50mm前後や望遠寄りでも撮ってみる

そして、何より大切なのはカメラを持ち歩いて、とにかくたくさん撮ることです。

絞りとは何か。

ISO感度とは何か。

シャッタースピードとは何か。

焦点距離が変わると写真はどう変わるのか。

最初から全部覚えなくても、撮影を繰り返していると、知識と実際の写真が少しずつ頭の中で結びついてきます。

すると、そのうち被写体を見た瞬間に「ここではこの設定にしよう」と自然に考えられるようになります。

写真は、知識だけではなかなか上達しません。

まずは絞り優先モードにして、小さいF値で撮ってみる。

少し離れて、望遠寄りでも撮ってみる。

そして、できれば明るい単焦点レンズを一本付けて、たくさん撮ってみる。

一眼レフならではの写真の面白さを知るには、それが一番手っ取り早い方法ではないかと思っています。

この世界は本当に「実在」しているのか? 量子力学から考える、世界と私たちの正体

「この世界って、いったい何なんだろう?」

「そもそも、私たちは何者なんだろう?」

そんなことを、ときどき考えます。

こういう話をすると、どうしても宗教やスピリチュアルの話に聞こえてしまうかもしれません。なので、正直あまり話したくないテーマでもあります。

私はエンジニアなので、どちらかといえば物事を科学的に考えたいタイプです。誰かに言われたから信じるのではなく、自分なりに納得できる根拠がほしい。

個人的には、信仰について聞かれれば「仏教です」と答えますが、特別に信心深いわけでもありません。お経も読めませんし、感覚的には無神論者に近いところもあります。もちろん、スピリチュアルについても興味はありません。

今回は、物理学、とりわけ量子力学について知る中で、私自身がこの世界をどう考えるようになったのかを書いてみたいと思います。

もしかすると、この世界は「バーチャル」なのではないか

最初に、今の私がなんとなく感じていることを言ってしまいます。

私たちが生きているこの世界は、ある意味で「バーチャル」なのではないか。

そんなことを考えています。

ここでいう「バーチャル」は、単純に「この世界は誰かが作ったコンピューターゲームみたいなもの」という意味ではありません。

私たちは当然、自分の身体や目の前にある机、椅子、スマートフォンなどを「物質として存在しているもの」だと思っています。

自分の手を見れば、そこには手があります。

当たり前ですよね。

でも、本当にその「物質」そのものが、私たちの考えているような形で実在しているのでしょうか。

もしかすると、その根底にあるのは物質ではなく、何らかの「情報」のようなものなのではないか。

そして、その情報が3次元空間の中に、私たちの身体や世界として投影されている。

ホログラムのようなイメージです。

……ここだけ聞くと、かなり怪しい話に聞こえますよね(笑)。

でも、私は意外と真面目にそんなことを考えています。

きっかけは量子力学だった

なぜこんなことを考えるようになったのか。

大きなきっかけのひとつが、量子力学です。

私は以前から量子力学に興味があり、本を読んだり、YouTubeで専門家の解説を聞いたりしてきました。

量子力学は、扱い方によってはスピリチュアルな話と結びつけられることもあります。

ただ、私が興味を持っているのは、そうした話ではありません。

なるべく実験によって検証され、科学として積み上げられてきた「物理学としての量子力学」です。

そして、この量子力学がものすごく不思議なんです。

「計算できるのに、なぜそうなるのか分からない」という不思議

量子力学は、大ざっぱにいえば、原子や電子、光子などの非常に小さな世界で起きる現象を記述する理論です。

しかも、その数学的な体系は非常に精密です。

数式を使うことで、ミクロな世界で何が起こるのかを極めて高い精度で予測できます。

ところが不思議なのは、

「なぜ世界がそのような振る舞いをするのか」

という解釈については、誰もわかっていないということです。

計算すれば結果は出る。

実験しても、その計算通りになる。

でも、それを私たちが普段持っている「物がそこに存在する」という感覚だけで理解しようとすると、途端に奇妙な世界が現れてきます。

観測するまで「場所が決まっていない」?

量子力学の世界では、粒子の状態を、日常的な物体のように「ここにある」と単純に考えることができません。

観測前の量子的な状態は、波動関数によって記述されます。そして観測すると、特定の結果が得られます。

この話を初めて知ったとき、

「何のこっちゃ?」

と思いました。

本当に。

日常の感覚からすると、まったく意味が分かりません。

たとえば机の上にリンゴがあるとします。

私がリンゴを見ているとき、リンゴは当然そこにあります。

では、私が後ろを向いた瞬間、そのリンゴはどうなっているのでしょうか。

ミクロな量子の世界まで降りていくと、私たちの日常的な「物はいつでも決まった状態でそこにある」という直感が、どうもそのままでは通用しない。

そこが不思議で面白いんです。

二重スリット実験がものすごく不思議

この不思議さを象徴するものとして有名なのが、二重スリット実験です。

壁に近接した2本の細いスリットを作り、その向こう側にスクリーンを置きます。

そこへ光子や電子などを送っていきます。

一粒ずつ送ったとしても、実験を繰り返していくと、スクリーン上には波が互いに干渉したときに現れる「干渉縞」が形成されます。

一個ずつ送っているのに、最終的には波の干渉を示すパターンになる。

これだけでも十分に不思議です。

ところが、さらに「どちらのスリットを通ったのか」という経路情報を取得できるようにすると、干渉パターンが失われます。

つまり、

「どちらを通ったのか分からない状態」と、「どちらを通ったのか判別できる状態」すなわち観測すると、現れる結果が変わる。

これがものすごく不思議なんですよね。

なお、ここでいう「観測」は、人間が目で見たり意識を向けたりすることを意味するわけではありません。

測定装置などとの物理的な相互作用によって経路情報が得られることが重要です。

それでも、

「では、そもそも“測定する”とは物理的に何なのか?」

「なぜ観測すると、私たちが経験するひとつの結果が現れるのか?」

という、いわゆる量子測定問題については、さまざまな解釈があります。

世界がひとつとは限らない?

量子力学には、この問題をどう理解するかについて複数の解釈があります。

そのひとつが、多世界解釈(Many-Worlds Interpretation)です。

非常に大ざっぱに言えば、量子的に可能な結果のうち、ひとつだけが選ばれて他が消えてしまうのではなく、それぞれの結果に対応する世界の枝が存在すると考える解釈です。

たとえば今ここにいる私は、この人生しか経験していません。

でも、多世界解釈的な世界観をそのままイメージするなら、自分には知ることのできない別の分岐の先に、異なる結果を経験している「別の自分」がいる、と考えることもできます。

もちろん、これは「別世界に自分のコピーが実際にいることが実験で確認された」ということではありません。

あくまで量子力学をどう解釈するかという議論のひとつです。

それでも、こういう考え方を知ると、

「そもそも、ここに自分がいるってどういうことなんだろう?」

と思ってしまいます。

物質ではなく「情報」が本質なのではないか

ここから先は、完全に私自身の想像です。

もしかすると、世界の根本にあるものは「物質」ではないのかもしれない。

何らかの情報や状態があり、それが一定の法則に従って変化している。

そして私たちは、その結果として現れた世界を「現実」として経験している。

そう考えると、この世界がものすごく巨大で精密な「計算」のようにも見えてきます。

もちろん、「だからこの世界はコンピューターシミュレーションだ」と断定することはできません。

そこまでの証拠はありません。

ただ、量子力学を知れば知るほど、私たちが日常的に考えている、

「世界には物質があって、その物質が動いている」

という単純なイメージだけでは、この世界の本当の姿を捉えきれていないのではないか、と感じるようになりました。

この世界はいったい何なのか

量子力学について知れば知るほど、私はこの問いに戻ってきます。

この世界って、いったい何なんだろう。

そして、

私たちは何なんだろう。

目の前にある物質が、本当に私たちの想像している意味での「物」なのか。

もっと根本的な情報のようなものが存在していて、それが私たちの認識する3次元世界として現れているのではないか。

今の私には、それを証明することはできません。

たぶん簡単には答えも出ません。

ただ、少なくともひとつ感じるのは、この世界は私たちが普段考えているほど単純ではなさそうだ、ということです。

普段は当たり前のように生きています。

手があって、机があって、地面があって、自分という存在がいる。

でも、その「当たり前」をずっと掘り下げていくと、最後には「そもそも存在するって何?」という、とんでもないところにたどり着いてしまう。

この話はまだまだ続けられそうですが、今回はこのあたりにしておきます。

「あなたの写真は作品ではありません」顧問の先生に言われて気づいた、いい写真の条件とは

「どうしたら写真を撮るのがうまくなりますか?」

写真を長くやっていると、こんな質問をされることがあります。

構図を勉強すればいいのか。絞りやシャッタースピードを覚えればいいのか。それとも、高いカメラやレンズを買えばいいのか。

もちろん、そういった知識や機材も大切です。

でも、20年近く写真を撮ってきた今、私が最初に伝えたいことはもっとシンプルです。

カメラを持ち歩いて、とにかく撮ること。

なぜこれが大切なのか。

そこには、昔所属していた写真部の顧問の先生から教わった「作品としての写真」に対する考え方が大きく影響しています。

私の写真歴

私は2007年ごろから、写真を趣味にしています。フィルムカメラを本格的に経験した世代ではなく、最初からデジタルカメラが中心でした。

2009年ごろには、当時日本で勤めていた会社の写真部に入りました。

写真部では、部員の先輩方と一緒にいろいろな場所へ撮影に出かけたり、お互いの作品を批評したり、毎年会社の食堂の脇に写真を飾って作品展を開いたりしていました。

その後は、荒川の花火大会で、5年間ほどオフィシャルカメラマンとして花火を撮影した経験もあります。

「記録写真」と「作品としての写真」は違う

私は写真を撮るとき、大きく二つに分けて考えています。

ひとつは「記録写真」。

もうひとつは「作品になり得る写真」です。

もちろん、すべての写真をきっぱり二種類に分けられるわけではありません。ただ、この違いを意識しておくと、撮り方がかなり変わります。

記録写真は「撮り逃さない」ことが大切

たとえば、運動会の撮影を頼まれたとします。

そこにはイベントがあり、人が何かをしています。

こうした撮影では、その活動をできるだけ撮り逃さず、必要な場面をきちんと残していくことにフォーカスすべきだと考えています。

私はこれを「記録写真」と考えています。

作品として撮るなら、考え方が変わる

一方で、作品として写真を撮る場合は少し違います。

「今、この瞬間を撮りたい」

そう感じたときに、構図を考える。焦点距離を考える。逆光や影を見る。どこから撮るのかを考える。

そして、日常の中に突然現れる非日常的な一瞬を切り取ります。

私が作品としての写真に最も重要だと考えているのは、その瞬間にしか存在しなかった偶然を切り取ることです。

私が考える「作品としての写真」には、この偶然性がとても重要です。

写真部の顧問から言われた「あなたの写真は作品ではありません」

会社の写真部に所属していたころ、顧問をしてくださっていた先生がいました。

当時すでに80歳を超えていたと思います。

朝日新聞社のカメラマンとして世界中を飛び回った経験を持ち、晩年には自分の写真集も出版していた写真家でした。

そして、とにかく写真に厳しい人でした。

作品展の前になると、自分たちが撮った写真をプリントして先生の前に並べ、一枚ずつ批評してもらいます。

私が初めてその批評会に参加したときのことは、今でもよく覚えています。

私が持っていったのは、箱根で撮影した写真でした。

夕日に照らされた富士山を背景に、ゴンドラが写っている。

富士山、夕焼け、ゴンドラ。

自分としては「きれいに撮れた」と思っていた写真でした。

当時私が先生に見せた写真

先生は写真を見ると、こんなことを言いました。

「これは、とてもきれいな写真ですね。でも、作品ではありません」

そして続けて、

「これはカレンダーの写真です」

と言ったのです。

「きれいな写真」と「作品」は同じではない

最初は、先生が何を言っているのかよく理解できませんでした。

「きれいに撮れているのに、作品じゃないってどういうこと?」

という感じです。

でも、今なら先生が言いたかったことがよくわかります。

カレンダーには、美しい風景写真がよく使われます。

霧の中に湖があり、そこへ美しい光が差している。雄大な山が夕日に染まっている。

そういう写真です。

もちろん、それ自体が悪い写真という意味ではありません。

先生が言いたかったのは、単に美しいだけでは「その人にしか撮れなかった作品」にはならない、ということだったのだと思います。

私が撮った富士山とゴンドラの写真もそうでした。

同じ時間、同じ場所に、別のカメラマンが何人か立っていたら、かなり似た写真を撮ることができたはずです。

そのゴンドラを撮り逃したとしても、少し待てば次のゴンドラがやってきます。

つまり、「その瞬間にしか撮れなかった」という要素が弱い。

そこが先生の言う「作品」との違いだったのだと理解しています。

作品には「偶然性」と「物語性」がある

では、同じ富士山とゴンドラでも、どうすれば作品になり得るのでしょうか。

たとえば、ゴンドラの中に親子が乗っていたとします。

逆光の中で二人が面白いシルエットになり、何かを指さしている。

そんな瞬間だったらどうでしょう。

人間の動きは予測できません。

親子がそこにいて、その姿勢になり、ちょうどその光が差し込む。

いくつもの条件が重なった一瞬です。

そこには偶然性があり、写真を見る人が想像できる物語も生まれます。

大切なのは、日常の中で起きた偶然をどう切り取るかということです。

いくつかの要素が明確に存在していて、それらを見た瞬間に、見る人の心の中にスッと物語が生まれる。

先生にとって、それが「いい写真」の定義だったのだと思っています。

「何かが起こりそう」を感じ取る

写真を始めると、どうしても技術が気になります。

構図はどうするのか、望遠レンズを使うのか、広角レンズを使うのか、絞りはいくつにするのか、シャッタースピードはどうするのか。

もちろん、どれも大切です。

でも先生が何度も教えてくれたのは、それ以前のことでした。

日常の偶然を切り取ること。

そして、そのためには日常の中で、

「ここで何か起こりそうだ」

という気配を感じ取らなければいけません。

この時間、この場所、この光、この人。なんとなく面白い瞬間が来そうだ。

そう感じたら、カメラを準備する。

そして本当にその瞬間が来たとき、迷わずシャッターを切る。

「撮れなかったこと」より「カメラを持っていなかったこと」を悔やむ

先生から教わった言葉の中で、今でも好きなものがあります。

「いい作品が撮れなかったことを悔やむより、撮りたいと思ったときにカメラを持っていなかったことを悔やみなさい」

これは本当にその通りだと思います。

偶然を写真にするためには、まずカメラがなければ始まりません。

「うわ、今の撮りたかった!」

と思ったところで、カメラが家にあったらどうにもならない。

だから当時の私は、本当によくカメラを持ち歩いていました。

しかもレンズも2〜3本。焦点距離の違うレンズを持ち歩いていました。

ロードバイクにも一眼レフを背負っていた

当時はロードバイクで出かけるときにも、一眼レフと交換レンズを背負っていました。

自転車に乗っていると、1日の中でドラマチックな風景に出会う確率が高くなります。

さらに誰かと一緒に走っていると、「人」と「風景」が組み合わさる。

すると、そこに偶然のチャンスが生まれる可能性が高くなる。

実際、ロードバイクに乗っている瞬間を撮った写真を、作品展に何度も出しました。

重いカメラを背負って走るのは大変です。

でも、撮りたい瞬間にカメラがないよりはいい。

結局、先生が教えてくれたことはとてもシンプルでした。

常にカメラを持っていなさい。

常に撮れる準備をしておきなさい。

ということです。

「写真がうまくなるには?」と聞かれたら

改めて最初の質問に戻ります。

「どうしたら、いい写真が撮れますか?」

そう聞かれたら、私はまずこう答えます。

カメラを買ってください。

そして、

買ったカメラを常に持ち歩いてください。

さらに、

とにかく撮ってください。

まずは、それだけです。

私はプロの写真家ではありません。

それでも、20年近く写真が好きで撮り続け、作品展やコンテストなどを通して、いろいろな撮影方法を模索してきました。

だから今になって、先生が教えてくれた言葉の重みがわかるような気がするのです。

いい写真とは「その瞬間」を自分の視点で切り取ったもの

写真を突き詰めていけば、学ぶことはいくらでもあります。

絞り、シャッタースピード、ISO感度、焦点距離、三脚、フラッシュ、光の読み方。

技術的な話だけでも非常に奥が深い世界です。

ただ、「作品としての写真を撮る」ということを考えたとき、その土台にあるのはもっとシンプルなことだと思っています。

日常の中にある偶然に気づくこと。

その瞬間にカメラを持っていること。

そして、迷わず撮ること。

きれいな写真と、心に残る写真は、必ずしも同じではありません。

完璧な構図でなくてもいい。

ものすごく高価なカメラでなくてもいい。

その瞬間、その場所で、自分だから気づけた何かを切り取る。

そこに見る人が何かを感じ、何らかの物語を想像する。

それが、私にとっての「いい写真」なのだと思います。

そして、そんな一枚に出会う確率を上げる一番シンプルな方法は、やっぱりこれです。

カメラを持って、外に出ること。

撮りたい瞬間は、こちらの都合を待ってはくれません。

AIは「超優秀だけど平気で嘘をつく新人」――エンジニアが身につけるべきマネジメント力

エンジニアの働き方が、AIエージェントによって根本から変わり始めている。

これは単に「AIを使うと仕事が速くなる」という話ではありません。

自分で手を動かして仕事を完結させる働き方から、AIエージェントに仕事を任せ、出てきた結果を評価し、正しい方向へ導き、最後は自分が責任を持つ。

そんな、ある意味では一人ひとりのエンジニアが「マネージャー」になるような働き方へ変わりつつあると感じています。

そして、この変化は思っていた以上に速いと感じています。

AIエージェントで、生産性が数倍になる仕事が出てきた

今、私の仕事において、AIエージェントに任せる比率はどんどん大きくなっています。

コーディング、シミュレーション、データ分析などのプログラミングのみならず、実験室で機材を使って実験するような仕事でも変化が起きています。

たとえば、音を出してマイクロフォンで拾う実験そのものをAIがやってくれるわけではありません。

しかし、実験をサポートするソフトウェアを作ったり、必要な設定を用意したりするところは、AIエージェントがどんどんできるようになっています。

そして、AIエージェントと相性のいい仕事に関しては、感覚的には生産性が数倍になっていると感じています。

ここでいう生産性とは、単にコードを書く速さだけではありません。

仕事を完了するまでの時間や、デバッグにかかる時間、あとからメンテナンスする手間なども含めた話です。

AIエージェントに任せたほうが圧倒的に効率的な仕事が増えてきた。これはもう素直に認めるしかありません。そういう領域では正直、もう私の技術力では、敵わないのです。

だから「これは自分でやるよりAIエージェントのほうが絶対にうまくできるだろう」と思える仕事については、90%くらいの信頼を置いて任せるようになってきています。

ただし、AIに任せるべきか微妙な「ボーダー」はまだある

もちろん、何でもAIエージェントに任せればいいわけではありません。

「これは全部AIに任せたら、たぶんいい結果にならないな」

そんな仕事もまだたくさんあります。

案件ごとに、その境界を見ながら使い分けています。

ただ、難しいのはその境界自体がどんどん動いていることです。

数カ月前には「さすがにこれは無理だろう」と思っていたことが、いつの間にか普通にできるようになっている。

AIエージェントの進化が速いため、昨日までの常識で「これはAIには無理」と決めつけることもできません。

AIエージェントは「超優秀だけど、ときどき嘘をつく新人」

私の感覚では、AIエージェントは部下として考えるとしっくりきています。

しかも、とんでもなく優秀な部下です。

文句を言わない。愚痴を言わない。メンタルも落ち込まない。そして24時間働いてくれる。

人間ではありえないスーパーマンです。

まるで、東大などの一流の大学を卒業したような超優秀な新人が、3人、4人、自分の部下として配属された。

そんな感じです。

ところが、困ったことがあります。

彼らは、実際の業務での経験や失敗の経験がほとんどない。

そして、さらに厄介なのが、ときどき平気で嘘をつくことです。

いわゆるハルシネーションと呼ばれる現象です。

だから、AIエージェントが出してきた答えが本当に正しいのかを見極めるのは、まだ人間側の責任です。

そう考えると、本当に変わった新人です。

超頭がいい。

論理的思考は完璧。

24時間休みなく働く。

不平不満も言わない。

頼めば何でもやってくれる。

だけど経験がなく、ときどき自信満々に間違ったことを言う。

私たちは今、そんな変わった「新人たち」を束ねながら仕事をするようになってきています。

エンジニア一人ひとりが「マネージャー」になる

以前の私は、自分に振られた仕事は基本的に自分でやっていました。

資料を作るなら、自分で一から資料を書く。プログラムが必要なら、自分で一からコードを書く。

ところが今は、一から全部自分でやると、むしろ効率が悪い場合が多くなってきました。

資料でもプログラムでも、AIにある程度の叩き台を作ってもらったほうが圧倒的に速い。

その代わり、自分の役割は別のところへ移ってきています。

AIにどういう指示を出すのか。

AIが出してきた結果をどう評価するのか。

おかしなところをどう見抜くのか。

どう修正させ、自分が求める方向へ持っていくのか。

これは、まさにマネージャーの仕事に近いんだと思っています。

つまり、AIエージェント時代には、一人ひとりのエンジニアがマネージャーのような役割を持つことになる。

今は、まさにその境目にいるように感じます。

「AIが出した結果です」では仕事にならない

ここで非常に重要になるのが、AIの成果物に誰が責任を持つのかという問題です。

実際に私は、こんな場面を経験しました。

ある技術者曰く、「AIにやらせました。結果はこうなりました。だから、こういう結論だと思います」

一見すると、それらしい結果が出ています。グラフもきれいにできている。

ところが中身を聞いてみると、その人自身はコードを理解していない。

どういう方法で計算したのか。どのように検証したのか。なぜこの結果になったのか。そこを質問すると答えられない。

これは非常に危険だと思います。

自分が説明できない結果を「AIが出したから正しい」として持ってくるだけでは、仕事に責任を持っていることにはならない。むしろ、プロジェクトを混乱させる可能性があります。

AIが出した成果物が本当に正しいのか。

目的に合っているのか。

もっと良くする方法はないのか。

それを判断し、最終的な結果に責任を持つ。

これからのエンジニアには、そういう能力が重要になると思っています。

AIで下がったのは「アイデアを形にするコスト」

最近、牛尾剛さんという方が書かれた「部下としてのAI」という本を読みました。

その中に、私自身の感覚と重なる内容があり、非常に印象に残りました。

これまでエンジニアは、さまざまなアイデアを持っていても、それを実際に形にするまでに大きなコストがかかっていました。

プログラムを書く。

プロトタイプを作る。

動作を確認する。

人に見せられる状態まで仕上げる。

これには時間もお金もかかります。

日々の業務に追われていれば、「こんなものがあったら面白い」と思っても、そこまで手が回らないことも多かった。

ところがAIエージェントによって、そのコストを大幅に下げられるようになりました。

であれば、これからのエンジニアに求められる行動も変わります。

アイデアを思いついたら、短いスパンでプロトタイプにする。

POC(Proof of Concept)をどんどん作って、実際に動く形にしてデモをしてみる

「こんなものを作ってみたんだけど、ちょっと面白そうじゃないですか?」

と見せていく。

そこから新しい機能や製品、さらにはビジネスチャンスにつなげていく。

これからは、そんなエンジニアの働き方が重要になるのだと思います。

AIエージェント時代こそ、エンジニアは探究する

私が今、忘れないようにしたいと思っているのは、この点です。

エンジニアは、探究的なことを短いスパンでどんどん試していく。

AIエージェントのおかげで、アイデアを形にするコストは大きく下がりました。

だったら、それを使わない手はありません。

考えて、作って、試して、人に見せる。

うまくいかなければ直す。

また別のアイデアを試す。

「こんなものを作ってみたんですけど、面白そうじゃないですか?」

そんなことをどんどん周囲に投げかけ、そこから新しい価値やビジネスの種を拾っていく。

これからのエンジニアには、そんな姿勢がますます求められるのではないでしょうか。

AIに仕事を奪われるかどうかを考えるだけではなく、AIという超優秀で、ちょっと変わった新人たちをどう束ねて、自分は何を生み出すのか。

私自身も、そんなことを意識しながら、これからの働き方を考えていきたいと思っています。

「こうなるはずなのに、ならない」がチャンス。技術開発で大切な問題解決の考え方

製品開発をしていると、必ずと言っていいほど問題が起きます。

想定していなかったノイズが出る。期待した性能が出ない。原因らしいところを調べても、どうにも説明がつかない。

そんな時、問題解決の大きなヒントになるのが、

「こうなるはずなのに、なぜかそうならなかった」

という瞬間です。

忙しく開発していると、「実験をミスしたかな」「測定がおかしかったのかな」と流したくなることがあります。

でも、私はむしろそこにこそチャンスがあると思っています。

今回は、私がエンジニアとして開発や問題解決に取り組んできた経験から、技術開発における「勘どころ」について書いてみたいと思います。

まず「こうなるはずだ」と予想してから実験する

技術開発や問題の検証をする時に大切なのは、実験する前に、

「こうしたら、こうなるはずだ」

という予想を立てることです。

当てずっぽうに試すのではなく、できる限り原理や経験をもとに結果を予測してから実験します。

例えば、信号に低い周波数のノイズが乗っているとします。

そこで信号ラインにキャパシタを入れて低周波成分を落とすのであれば、

「キャパシタを入れれば、このメカニズムによってノイズが減るはずだ」

と考えてから試します。

予想を立てて検証すると、ほとんどの場合は、

「やっぱりこうなった」

で終わります。

ところが、ごく稀に、

「こうなるはずなのに、ならない」

ということが起きます。

私は、この瞬間が非常に重要だと思っています。

そこには、自分たちがまだ理解していない何かが存在する可能性があるからです。

「予想と違うところに発見がある」と教えてくれた先生

この考え方は、もともと私が自分で思いついたものではありません。

昔勤めていた会社で技術顧問をされていた、伊達先生から教わりました。

伊達先生は理化学研究所で長く勤務された後、私の会社で顧問をされていた、私が非常に尊敬しているエンジニアです。

若い頃にこの話を聞いた時、正直なところ、私はあまりピンときていませんでした。

ところが、その言葉を頭の片隅に置きながら開発を続けていると、

「確かに先生の言っていた通りかもしれない」

と思う場面が何度も出てきました。

原因候補を挙げて、一つずつ検証する

問題が発生したら、まず考えられる原因を挙げていきます。

「もしここが原因なら、この実験をするとこうなるはずだ」

「こちらが原因なら、ここにはこの現象が起きるはずだ」

というように、原因の仮説と、それを確かめるための実験を考えます。

チームで可能性をリストアップし、効率や優先順位を考えながら順番に検証していく。

そうすると、

「この実験がこうなったから、この原因の可能性は低い」

というように、問題の範囲を少しずつ狭めることができます。

多くの場合は予想通りの結果が積み重なり、根本原因に近づいていきます。

でも時々、

「あれ? ここをこうしたら、こうなるはずなのにならないぞ」

という矛盾が出てきます。

忙しい時ほど、こういう結果を、

「実験をミスしたかな」

「もう一度やったら正常だったから、これはなかったことにしよう」

と処理したくなる。

でも、それはすごくもったいないと思います。

自分の予想と実験結果が違っていた時ほど、そこに問題解決のチャンスが眠っていることがあるからです。

解けない時ほど「想定外」を試してみる

どうしても解決できない問題は、自分たちが最初に考えていた範囲の外側に原因があることがあります。

考えてみれば当然です。

自分たちが想定している範囲に原因があるなら、とっくに解けている可能性が高い。

だから原因が分からない時ほど、いつもと違う変数を思い切って動かしてみることが大切です。

例えば、

  • 電圧を1.5倍、3倍にしてみる
  • 普段は入力しない信号を入れてみる
  • 温度を大きく変えてみる

といったことです。

音のシステムなら、「このマイクでそんな周波数を拾うはずがない」と思っても、超音波領域の信号を入れてみる。

少し突拍子もない実験です。

ほとんどの場合は、

「まあ、そうなるよね」

で終わります。

それでいいんです。

ところが、ごく稀に、

「あれ? 温度を変えたらノイズの出方が変わったぞ」

「これは説明がつかない」

という結果が出る。

そこが問題解決の糸口になることがあります。

もちろん、予想外の結果がすべてヒントになるわけではありません。

ただ、自分たちの予想と違う挙動が出たという事実には、一度きちんと注目する価値があります。

専門外の人の視点も使ってみる

想定外の変数を探す時には、その分野の専門家ではない人の意見が役立つこともあります。

専門外の人には、その分野特有の先入観がないからです。

問題を長く考えている本人は、知らないうちに視野が狭くなります。

そんな時に、

「こういう問題があるんだけど、何か思いつかない?」

と聞いてみる。

多くの場合は直接的なヒントにはなりません。

でも時々、

「その視点は面白いな」

と思う意見が出てきます。

そうしたら、時間をかけずに軽く試してみる。

そして予想と違う結果が出たら、そこから本格的に掘り下げればいいのです。

問題解決の「勘」は知識と経験からできている

ここまで「いろいろ試してみる」と書きました。

ただ、単に手当たり次第に実験すればいいわけではありません。

重要なのは、

「この変数をこう変えたら、おそらくこうなる」

と推測できることです。

そのためには知識と経験が必要です。

ある意味では、これがエンジニアの「勘」なのかもしれません。

計算式や物理モデルを使って、ざっくりでも結果を予想できる。

そして実験結果がその予想から外れた時に、

「これは何かおかしい」

と気づける。

この力は、普段から知識を蓄積することで少しずつ身についていきます。

日常生活で何か現象を見た時にも、

「これは、どういう仕組みで起きているんだろう?」

と一度自分で考えてみる。

その後でAIに聞いたり、Webで調べたりして答え合わせをする。

こういう積み重ねが、いざという時の問題解決の勘につながります。

また、製品開発では問題が自分の専門分野だけで起きるとは限りません。

私は信号処理のアルゴリズムを扱っていますが、例えば補聴器のプロトタイプでノイズが出た時、それがアルゴリズムの問題なのか、電気回路なのか、マイクロフォンなのかは最初には分かりません。

だからこそ、自分の専門だけでなく、周辺分野についても少しずつ知識を広げていくことが大切だと思っています。

まとめ:予想外の結果を「なかったこと」にしない

問題が起きたら、まず、

「こうしたら、こうなるはずだ」

という仮説を考える。

それを検証するための実験を行い、原因の範囲を少しずつ狭めていく。

そして原因が分からない時には、いつもと違う変数を動かしてみる。

一見するとバカげているような実験でも構いません。

ほとんどは「やっぱりそうなった」で終わります。

でも、ごく稀に、

「あれ? 予想と違う」

という結果が出る。

その時、それを単なる実験ミスとして片づけないことです。

もちろん、本当に実験ミスだったということもあります。

それでも一度、

「なぜ予想と違ったんだろう?」

と考えてみる。

そこに、自分たちがまだ見えていなかった根本原因や、新しい発見へのヒントが眠っているかもしれません。

エンジニアの問題解決力というのは、正しい答えをたくさん知っていることだけではないと思います。

「自分の予想と現実が食い違った瞬間」に気づき、その違和感を掘り下げられること。

それもまた、技術開発における大切な「勘どころ」なのだと思います。

「制度がある」だけでは足りない。メンタル疾患と職場復帰への違和感

インフルエンザにかかって「1週間会社を休みます」と言えば、今の時代、多くの人は「お大事に」と言ってくれるでしょう。

では、うつ病やパニック障害で「しばらく休みます」と言った場合はどうでしょうか。

今なら会社にも休職制度があり、「ゆっくり休んでください」と言ってもらえることが多いと思います。

でも私は、ときどき考えます。

本当にみんな、心の底から「これは病気だから休む必要がある」と思っているのだろうか。

「気合が足りない」「本人の気持ちの問題だ」と口にする人は減りました。

ただ、「言わなくなったこと」と「本当に理解したこと」は、同じではないと思うんです。

20年前、パニック障害が原因で会社を休んだ

私は20年ほど前、パニック障害で長期間会社を休職しました。

当時すでに会社には復職プログラムがあり、私もそれに沿って職場復帰を目指しました。

最初は、2週間ほど毎朝会社の門まで行き、来たことを確認してもらって、そのまま帰る。

次は1〜2時間だけ勤務する。

その後、半日勤務へ進んでいく。

少しずつ会社に慣れるという考え方自体は、合理的だと思います。

ただ、私が違和感を持ったのは、途中で決められた出社ができないと、段階をやり直すという仕組みでした。

でも、健康な人だって、2か月あれば風邪くらいひいてもおかしくない。

ましてや病気から復帰している途中です。

昨日は行けたけれど、今日は無理だった。でも明日は行けるかもしれない。

回復には、そういう波があるはずです。

それなのに「毎日来られたら回復」「来られなければまだダメ」と判断されると、病気の状態を見るというより、なんとなく根性を試されているように感じてしまいました。

制度があることと、理解があることは違う

もちろん、会社側にも事情はあります。

安全に復帰できるか確認しなければならないし、段階的に仕事へ戻す仕組みそのものを否定したいわけではありません。

ただ、当時の私は、

「一緒に体調を見ながら、働ける方法を探しましょう」

というより、

「決められた条件をクリアできたら復帰を認めます」

という試験に近いものを感じました。

私はなんとかプログラムを終えましたが、完遂できず会社を辞めていった人も何人か知っています。

メンタル疾患からの回復に必要な時間は、人によって違います。

3か月で戻れる人もいれば、半年以上かかる人もいるでしょう。

そこに一律のスケジュールを当てはめることが、本当に復職支援になるのか。

当時の私はとても疑問に思ったことを覚えています。

メンタル疾患は「気合」の問題ではない

うつ病をはじめとしたメンタル疾患には、脳や身体の働き、遺伝的な要因、環境、ストレスなど、さまざまな要素が関係すると考えられています。

少なくとも、

「根性が足りない」 「気持ちを強く持て」 「甘えている」

といった精神論だけで説明できるものではありません。

当事者はむしろ、

「会社に行かなきゃ」 「早く元に戻らなきゃ」 「周りに迷惑をかけたくない」

と考えていることがあります。

できるなら、とっくにやっているんです。

できないから苦しんでいる。

だからこそ病気として扱う必要があります。

特別扱いではなく、普通の病気として

社会は20年前より大きく変わりました。

休職制度や復職支援も整い、「うつ病なんて気合で治せ」と公然と言う人も減ったと思います。

それは大きな進歩です。

ただ、私はもう一歩先に進んでほしいと思っています。

メンタル疾患の人を特別扱いしてほしいわけではありません。

普通の病気として扱ってほしい。

インフルエンザなら休む。

骨折したら治るまで無理に走らない。

メンタル疾患も同じです。

治療して、休んで、状態を見ながら少しずつ戻っていく。

途中で調子が悪くなれば調整する。

そこに「根性があるか」「本気で復帰する気があるか」という人格評価を持ち込む必要はないはずです。

復職制度で本当に大切なのは、制度に人を合わせることではなく、その人が今どんな状態なのかを見ることではないでしょうか。

「ゆっくり休んでね」と言える社会から、

「病気なんだから、休んで当然だよね」と本当に思える社会へ。

私は、そこまで理解が進んでほしいと思っています。